九月ウサギの手帖

うさぎ年、9月生まれのyukiminaによる日々のあれこれ、好きなものいろいろ。

2021年、『ベニスに死す』に出会い直す

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 昨年、ヴィスコンティの映画「ベニスに死す」を観直した。

 昨年5月にこの記事のなかで『秘密の花園』とともに触れたのたが......。

kate-yuki.hatenablog.com

 今回はこの作品だけに絞って、詳しく書こうと思う。

 大昔、10代後半か20代はじめの頃に観た時は、美少年タジオ役のビョルン・アンドレセンばかりが記憶に残り、彼に魅了され恋い焦がれ、追い求めた老いた男性が、最後、白塗りの化粧をしてどろどろになって海辺で死んでしまう……その老いた男性、アシェンバッハの心理には付いていけず、美しいが、変な映画だなあと長年思っていたのだ。

 しかし、最近、アシェンバッバは最後、コレラで死んでいることをあらためて知り、そうだったのか!と、以前録画しておいたものを再び観ることにしたのだ。

 で、結論から言うと、今さら言うまでもないことなのだが、これはとんでもない傑作と驚嘆したのであった。

 というわけで、これを機にトーマス・マンの原作『ベニスに死す』(圓子修平訳/集英社文庫/以下、引用部分は本書から)も初めて読んでみた。

 映画では高名な音楽家の設定だが、原作では作家。地位も名誉もあるが、権威主義的な、古い感じの作家。彼がヴェネツィアに旅立つまでの描写は結構長く、なかなかタジオは現れない。そして読みづらい。こんな感じなのです。

 

プロイセンのフリードリヒ大王の生涯の明晰で雄勁な散文叙事詩の作者、ある理念の翳のなかで、大勢の人物が登場する、夥しい数の運命が集められた『マーヤ』という名の長篇小説の絨毯を長年にわたる勤勉によって織り上げた、忍耐強い芸術家、感謝する一世代の青年たちに、もっとも深い認識の彼方になる道徳的決断の可能性をしめした『ある哀れな男」という表題のあの力強い短篇小説の作者、最後に(これで彼の円熟期の作品を簡単に表示したことになるが)その秩序づける能力と反立(アンチテーゼ)の雄弁によって真面目な批評家をして、シラーの『素朴文学と感傷文学』に比肩しうるものと言わしめた、「精神と芸術」に関する情熱的な論文の著者、つまりグスタフ・アシェンバッバは、シュレージエン州の郡役所所在地であるLに身分の高い司法官の息子として生れた。P16

 

 一読しても、意味がわからず、訳が固いのかな?などとと思いながらも、読み進めていくと、いよいよヴェネツィアに到着した辺りから、俄然読みやすくなってくる(訳のせいではなかった)。

 映画では、小説の冒頭にあたる部分は回想で描かれ、旅のところから始まるが、マーラー交響曲第5番で始まる有名な冒頭のシーンは、映画史上に残る名シーンで、例えようもないほど美しい。すでに結末を知っているからかもしれないが、アシェンバッバは死への世界へ旅立っていくかのような気配が濃厚である。

 さて、イタリアに着いたアシェンバッバは慇懃無礼というか、地元で働く人々を見下している感じが随所に。イタリアに憧れはあるが、ラテンな人々に対してどこか小馬鹿にして、いつも不機嫌である。

 それが、ホテルでタジオを発見してからというもの、がらりと変わり、突然世界が色彩を帯びたようになる。原作の小説でも、そこからのシーンは俄然、文体が生き生きとしてくる。

 

蒼白く優雅にうちとけない顔は蜂蜜色の髪にとりかこまれ、鼻は額からまっすぐに通り、口元は愛らしく、やさしい神々しい真面目さがあって、ギリシア芸術最盛期の彫刻作品を思わせたし、しかも形式の完璧にもかかわらず、そこには強く個性的な魅力もあって、アシェンバッバは自然の世界にも芸術の世界にもこれほど成功した作品は見たことがないと思ったほであった。 P46-47

 

 という描写が延々と延々と続き、ひとりの少年の美しさに対してこんなにも言葉を費やせることに驚く。まだまだ続く。

 

ゆるやかな袖が下へ行くに従って狭くなって、まだ子供子供したほそい手首にぴったりとついているイギリスふうの水兵服は、その紐やネクタイや刺繍などのせいでこの少年の繊細な姿になにか豊かで豪奢な趣を添えている。P47-48

 

  読んでいくと、衣裳ひとつ取ってもヴィスコンティの映画はかなりマンの小説に忠実であることがわかる。

 

少年らしく優しく引き締った、生き生きとしたその身体つき、捲毛から水をしたたらせて、空と海の深みから立ち現れた優雅な神のように美しく、水を出、水から逃れてきたその光景を見ていると、神々の世界のこどもが思い出された。少年の姿は原初の時代、形式の根源と神々の誕生を物語る詩人の言葉のようであった。P60

 

 「神々の世界のこども」! 

  賛美の嵐なのだが、映画を観ると、その形容詞にタジオがちゃんと相応しい少年になっていることにまたあらためて驚く。ヴィスコンティアンドレセンを発見した時、心のなかで狂喜乱舞したのでしょうねえ。

 

 そして、アシェンバッバはタジオの美しさに酔いしれて、ストーカーのように彼を追い回しているうちに、ひたひたとコレラが迫る。
 観光客を失いたくない地元の人々はひた隠すのだが、だんだんと人がいなくなるヴェネツィアは美しくも禍々しい空気を帯びていくのだ。

 

 アシェンバッハは直接タジオに話しかけることもしない。だからむろん、触れることもしない。しかし、タジオは何かに気づいており、挑発的な視線を投げかけ、彼の前をゆっくり通り過ぎる。

 なんともスリリングなのである。彼が同性愛者なのか、そうではなくただ単に美しい彼を見たいだけなのか、説明はされない。

 

 実はこの作品は、トーマス・マンが1911年にイタリア旅行をした実体験がもとになっている。現実ではコレラ蔓延の危険に気づき、ドイツに引き上げ、それでこの小説が書かれたわけだ。当時、彼がいかにその美少年(実在したポーランドの貴族)に夢中だったかを、妻が語っていたらしい。

 小説では、そこで健全に帰国しては話にならないので、アシェンバッハをヴェネツィアに留めたわけだが、そうあったかもしれないもうひとつの世界の作者の姿だったのかもしれない。

 

 久々に「文学」を読んだという感慨ひとしお。健全さとは遠い何か。でも退廃だけでもない何か。管理されて健康に生きるだけの世界になってしまいそうな今の世界と比べると、『ベニスに死す』の世界はなんと自由で深いことか。そして残酷でもある。

 

 また、ヴィスコンティの映画であらためて驚くのは、そのスケールの大きさと贅沢さ、豊かさ。

 例えば、ホテルのロビーやレストランのシーンなどでも、話とは関係ない宿泊客を大勢出し、衣裳も持ち物も1人ひとりを丹念に描く。女性なら派手な帽子を皆かぶっている。海辺でも俯瞰で、子どもたちは水着だけど、ご婦人方は海辺でもドレスにパラソル、というのを延々と見せる。

 英国のドラマ「ダウントンアビー」も素敵だったけど、お屋敷の限られた空間とお屋敷周辺で生きる限られた登場人物なのを思い出すと、スケールの大きさは比較にならない。こういう映画は、もう現代では制作できないのかなと思う。

 壮大でなおかつ華麗、様々なディティールの積み重ねで、それらが映画の奥行きを生む。

 この状況のなか、期せずして「すごい過去のもの」に出会ったわけだけれど、折り返し切った自分のこれからの人生、今さら言うまでもない名作を観直したり、読み直したりという愉しみで結構生きていけそうな気がする。

 いやいや、自分にとっても未見、未読の名作も山のようにあり、それだけでも残りの人生は足りないかもしれないのであった。

 

【追記】

この集英社文庫の解説は、ドイツ文学者の池内紀氏。作品の背景が詳しく書かれていてこちらも必読。タジオのモデルになった男性のその後にも触れられている! 池内氏のドライな視線というか、筆致がとてもよい。その池内氏も2019年に逝去された。RIP.