文学作品のなかの「疫病」
ーーそのあと、いやなことがつぎつぎに起こりました。そして、その朝がなぜいつもとちがった感じだったかが、メリーにはわかりました。コレラが恐ろしい勢いでひろまり、人びとがまるでハエか何かのようにばたばたと死んでいたのでした。
(略)
物音やあわただしい足音、コレラで死んだ者を悲しむ泣き声などがメリーをおびえさせましたが、一方ではおこらせもしました。だれもメリーが生きていることを思い出してくれる者がいなかったからです。あまりのできごとに恐れおののいていましたから、このかわいげのない女の子のことなど思い出す人もいなかったのでした。コレラのような病気がはやっているときには、だれでも自分のことしか考えられないようすでした。でも、みんなの病気がなおれば、きっとだれかがメリーのことを思い出し、ようすを見にやって来ることでしょう。
しかしだれもやって来ませんでした。
ーー『福音館古典童話シリーズ 秘密の花園』バーネット作 猪熊葉子訳 より
3月にブログを書いてから、2か月近く経ってしまった。
その間、新型コロナウイルスの感染が世界的に広がり、この日本でもクルーズ船の騒ぎだけと思いたかったのも束の間、あっという間に拡大し、想像もしなかった状況が広がっている。
その前に成す術もなく立ちすくんでいるといった感じで、コロナ前に書こうと思っていたことはたくさんあったのに、今はそれどころじゃないと、さして読む人もいないような個人ブログですら「自粛」モードになってしまった。
というより、自分の仕事が在宅ワークも不可で、日々疲れていただけなのだが。
医療の専門家でもないし、メンタルヘルスに役立つことを言ったりできる立場でもないし、なんの有益なことも書けないのだが、せっかく今年から始めたブログなので、ちょっとは再開してみることにした。
冒頭の文章は、有名な児童文学の名作『秘密の花園』のはじまりの部分。
そういえば、あのお話はメリーがインドにいる間に、何か熱病か何かが流行る話ではなかったかな?とふと思い出し、久々に取り出して読んでみたら、まさに恐るべき疫病「コレラ」が蔓延した時代だったのだ。
メリーの乳母が亡くなり、ついで両親もなくなり、器量も顔色も悪く、性格も可愛くないメリーはひとりぼっち。そして英国に戻り、おじさまのところに引き取られる……という設定だったのだ。
そこから先の展開が鮮やかなので、コレラのことは記憶になく、疫病などというものは、過去のお話の世界のなかの出来事で、自分に無縁だと印象に残らないのだなあと、今回しみじみ思った。
そうか、『秘密の花園』は癒しと再生の物語というだけでなく、アフター・コレラの物語でもあって、そのうえであの展開だったのかと思うと、ますます深みが増してくる。
大人になった今、あらためて読み返したみたいと思った。
私が宝物にしているのは、ハードカバーの福音館書店の古典童話シリーズで、挿絵は堀内誠一さん。高校生の時に図書館で借りて読んで大好きになり、自分のなかの『秘密の花園』のイメージはこれで決定づけられた。
その後、映画を観たり、ほかの訳や挿絵の本も読んだが、やはりこの本が私にとっての『秘密の花園』。というわけで、最近になってやっと購入したのだ。
購入するまで、何十年かかっているんだよ!と思うのだが、絶版にせず、ずーっと何十年も出版し続けている福音館書店はすごい。
このシリーズは絶対買った方がよいと思う(同シリースで、ほかにもよい作品がいっぱいある)。
この福音館書店の『秘密の花園』、見返しの絵も素敵です。もちろん堀内誠一さんの絵。文庫の方には入っていないので、絶対ハードカバーがおすすめ。
また、つれあいに教えてもらったのだが、トーマス・マンの『ベニスに死す』、この小説も実はコレラが重要なモチーフになっていたのだ!
私はヴィスコンティの映画しか観ていなくて、原作は読んでいないのだが、主人公の老作家がベニスで美少年に一目惚れし、執着するあまり病気になって精神にも異常をきたし惨めに死んでゆく、という哀しいストーリーで、映像は美しいが、変な話だなあともちょっと思っていた。そこまでして、少年に焦がれるというのが哀れというか、何というか。
だから、疫病が広がりつつあった……なんていう設定はスルーしてしまっていた。これもまた、疫病なんてお話の世界でしかなかった頃に生きていた自分の感じ方だったのだろう。
コレラがひたひたと迫り、多くの人々が逃げて行くなか、アシェンバッハは美少年タジオを追い求め、ベニスを離れようとせず、その幻影を追い続け、コレラに侵され死んでいくのだ……ということに気づくと、物語の世界ががらりと変わる。
哀しみというよりも、狂気を感じる。当時の社会状況なども克明に映し出しているのだろう。
原作も手元にあるので、ちゃんと読みます!
美少年と老人の狂気の話と単純に捉えてしまっていたのは、これはヴィスコンティが起用したビョルン・アンドレセンがあまりに美しすぎた功罪かもしれないが。
トーマス・マン、さすが、ノーベル文学賞受賞作家である(なんて、今さらなことを言ってすみません!)。
ちなみに、『ベニスに死す』の発表が1912年、『秘密の花園』の出版も1911年で、まさに同時代なのだ。まったく違うふたつの文学作品が同時代の「コレラ」をモチーフにしていたとは。
最近は、NHKの番組「100分de名著」でカミュの『ペスト』の回が再放送されていたので、全回見たが、これまた今さらな感じだが、すごい作品で心が震えた。
今、売れているらしいが、私もちゃんと読まなくてはとあらためて思った。
こうして、疫病は文学作品のなかに克明に描かれてきたことに気づかされる。
これもこのコロナ騒動のおかげかもしれない。「おかげ」という言い方がよいのかどうかわからないが。
終息までいったいどれくらいの時間がかかるのか見当もつかないが、いつの日か、誰かの手によってこのコロナウイルスをめぐっての物語が書かれる日が来るのだろう。
「めぐっての物語」でなくても、きっと、そこかしこにコロナの影は付いて回る。本当に普通の日常が変わってしまったから。
コロナ前の社会には戻れないのだ。
個人的には完全、完璧な終息はないと思う。ある程度、感染者数が落ち着いた段階で(それがいつになるかもわからないが)、共存していくしかないのだろうと。
だから、来年のオリンピックも中止になるのではないかと予想している。
これを機にオリンピックは廃止したらよいと思う。
膨大な予算をかけ、国単位で競うことになんの意味があるのだろうか(というのは、コロナウイルス以前からずっと思っていたこと)。
私個人は都心まで通勤し、結構大変な日々である。
職場はシステムが追いつかず、リモートワークもほとんどできず(せいぜい週1日くらい自宅作業できればよいという感じ)、買い物もあまりできず、ランチの調達にも苦労し、消毒用エタノールがどこにもないので、無水エタノールで手づくりクリーナーをつくって素手で使ったら指がぼろぼろになりかけたり(手袋をせよとネットにはちゃんと書いてあった)……あるいは、38度2分の熱が出る夢を見たり、などなど、疲れているといえば、疲れている。
疲れているのだが、電車は空いていて、人気のない街中は静かで以前よりストレスはなく、不思議な感覚なのだ。ストレスはないが、シャッターの降りたレストランの前を通れば、経営している人、働いている人たちはどうしているのだろうか?と、心配になってくるが、今は好きだったお店に行くこともできない。
そう思っている反面、自分の仕事は変わりなくあるわけでーー収入が確保されていることはとてもありがたい。
そのおかげで、お取り寄せスイーツやら何やら普段以上に頼んで(自分を甘やかし)、こうしてブログなんかも書いていられる。
だけど、もし自分が感染したら……と思うと不安……っていうのは誰もが同じだろう。
その辺の自分の日常のことは、また別の時に書こうと思う。
あまり役に立つようなことが書けなかったので、代わりに、私自身が励まされているということで、人類学者の磯野真穂さんをおすすめします。
ツイッターのアカウントもあるし、著書もいろいろある。
医学一辺倒だけでないものの見方は、今の息苦しい状況にちょっと風穴があく感じ。 少し前までは私も、専門家のアカウントをフォローしまくり、NHKの特番は必ずチェックしていたが、一般人ができる感染症対策など自分ができることは限られていて、それはだいたいわかったので、今は自分の精神状態を健やかに保つための情報は何か?を指標にしている。
そのひとりが磯野真穂さん。
困難な状況だけれど、「家畜化」されずに生き延びるため、文学や人類学は大切!と思っている。