『食べたくなる本』を読んで、思い出したことなど
3月に書いてから、すっかりご無沙汰してしまいました。
読書日記を書こうかと思いつつ、読んでから時間がちょっと経ってしまうと、新鮮な感想が薄れ、書く勢いがなくなってしまう。
私は、書くならきっちり長く書こうとするので、まとまった時間ができたらと思ってると、その時間はいつになってもできないというわけで。
短くても、文の完成度などあまり気にせず、備忘録的に記していくのがよいのだろうな。
そのほかの理由として、5月末に、今頃?!という感じでコロナに罹患してしまい、なかなかにしんどい思いをして、ブログを書こうという気力がなかったこともある。
コロナ禍の頃、東京のど真ん中で緊急事態宣言中も出勤していて一度も罹らず逃げ切ったと思っていたのに、今になって……という感じである。
会食などしていないので、どう思い返しても、混んでいた地下鉄でやたら咳をしている年配の男性がいたので、その時かなあと……公共の交通機関に乗る時はたいていマスクをしているのだけれど、だんだん暑くなってきて、つい外していたのだった。
熱が数日続いて喉が若干痛いくらいで、それほど重症化しなかったものの、数日後、嗅覚味覚が失われた時はうろたえた。
コーヒーを淹れて飲んだ時にやけにまずいなと思ったら、匂いも味もしていないのだった。このまま戻ろなかったらどうしようと一時はかなり落ち込んだけれど、幸い1週間くらいで戻った。
コロナはこの世界から消えているわけではない……ということは、頭ではわかっていたが、身をもって思い知らされた。
とはいえ、この猛暑でマスクもつらいので通常は外しているが、人と向かい合わせになるような混んでいる電車内や病院に行く時は必ずマスクを付けるようになった。
さて、本題に戻り……最近読んだなかで印象に残っているのは、『大使とその妻』(水村美苗著)なのだが、内容が濃すぎてうまくまとまらず、再読してから書こうと思いつつも、ついほかの本を読み始めてしまうのであった。
ほかは『西洋の敗北』(エマニュエル・トッド著)、『鴨川ランナー』(グレゴリー・ケズナジャット著)、『ハサミ男』(殊能将之著)、『おあげさん』(平松洋子著)などなど。
現在読んでいるのは、今話題の映画『国宝』の原作(吉田修一著)と『たそがれてゆく子さん』(伊藤比呂美著)といった感じで、あれこれ読んでいる。
今回、読書日記として取り上げる一冊は……味覚を失われた時に自分が「食べる」ことがいかに好きかとしみじみ思ったので、『食べたくなる本』(三浦哲哉著/みすず書房/2019年)を。
本自体についての詳しい紹介というより、この本を読んで思い出した自分自身のことが中心になりますが。

本書はいわゆる「グルメ本」ではなく、さまざまな料理本と、その著者である料理家それぞれの料理のみならず、その人の哲学のようなものまでを紐解いていく。
こういう本は案外と珍しいのではないだろうか。
さまざまな料理本が登場するので、イメージを固定しないためか、クリーム色に近い白の地にスミのタイトル文字だけ、という何の装飾もないシンプルな装丁。
地味な見た目だけれど、中身がみっちり詰まっていて面白い。
読んでいると、ああ、私も料理本が好きなんだなと思う。
著者はヴェンダースの映画「ベルリン天使の詩」のなかで、地上に降りて来た元天使が初めて飲むコーヒーの味の感動を例に出し、「料理の本に没頭したいと思う理由」をこう述べる。
さまざまな本のなかに入っていくことで、自分が浸っている世界から一時的に離れ、本を閉じたあとは、またこの世界に戻る。こんなふうに「元天使」の新鮮な感覚を取り戻そうと飲んでいるのではないか。だから、私は料理の本に惹かれる。P12
そうそう、私も料理本をめくりながら、「元天使のコーヒー」を追い求めているのかもしれない。
本書で取り上げられているのは、高山なおみ、細川亜衣、有元葉子、丸本淑生、ケンタロウ、辰巳芳子、小泉武夫、勝見洋一、エル・ブリ……などで、桐島洋子や土井善晴なども出てくる。
高山なおみ、細川亜衣、有元葉子、丸本淑生、この辺りの料理本は私もずいぶん読んできたので、読んでいた当時のことなど、あれこれ思い出した。
本書でも言及されているが、高山なおみさんがシェフとして勤務していた吉祥寺(東京)の「諸国空想料理店KuuKuu」はよく行った。
KuuKuuは2003年に閉店してしまい、今では伝説のような店になっている。
当時20代後半から30代にかけて、それほどお金はなかったけれど、人生のなかでもっとも友人とご飯を食べたりお酒を飲んだりした時期で、その頃によく行っていたお店だ。
私にとって、1990年代から2000年代初めにかけてのよき思い出。
私の友人は吉祥寺が好きな人が多く、何かというと吉祥寺に集まったので、KuuKuuには数えきれないほど行ったし、ひとりでもランチを食べに行ったりした。
エスニック料理が中心で美味しかったのはもちろん、お店も広くてインテリアも空気感もさわさわと風通しのよい清々しさと明るさがあった。
当時は好きなお店、くらいにしか思っていなかったけれど、もうあんなお店には二度と出会えないことに今になって気づく。
前回のブログにも書いたけれど、人と同様、お店も失われて初めて、そのかけがえのなさに気づくものなのかも。
KuuKuuに行っていた頃は高山なおみさんのことはまったく知らなくて、後になってから料理本やエッセイを何冊か購入した。
彼女のエッセイには独特な文体があり、気さくなようでいてどこか物憂げな空気があり文学的。
丸本淑生さんも懐かしい。
不思議な吸引力のある文体で、私もはまったひとり。
築地の市場で新鮮な魚を調達すべしとあり、さすがにそれは実践できなかったが、荻窪の地下街に大きな魚屋があり頑張ってあれこれ買い物した記憶がある。
本書のなかに丸本淑生さんが自宅で豆から発芽させる「もやし」を提唱していたことが紹介されているが、私ももやしを育てていたのだった!
すっかり忘れていたけれど、思い出した。
もやしというか、アルファルファみたいなものだった。
当時、通販生活でもそのキットを扱っていたので、購入して栽培し、結構収穫できて、サラダやサンドイッチなどに入れていた。
でも、いつしかキットがカビっぽくなり、手入れが面倒になりやめてしまった。
『たたかわないダイエット』という本も読んで共感して、ちょっと実践してみたが、ダイエットには成功しなかった記憶が(笑)。
やがて、一般人にはなかなか真似できない丸本淑生さんの料理本からは遠ざかり、もやし栽培もやめってしまってしばらくした後、亡くなられたことを知った(調べると、2008年逝去)。
細川亜衣さんの料理は、ストイックすぎて、実際に作ったことは実は一度もないのだが、研ぎ澄まされたその世界には惹かれるものがある。
料理の写真やスタイリング、ご本人のアンティーク風の衣装も美しくて、料理本というより、読みものとして楽しんでしまう。
で、いちばん影響を受けたというか、憧れの料理家は有元葉子さん。
90年代からのレシピ本は未だに捨てられず、今でも時々作ることがある。
カリカリしたものと柔らかなものを取り合わせる、温かいものと冷たいもののバランスを取る、オリーブオイルを多様に使うことなどは、有元さんから教わったと思う。
冷奴を、醤油ではなく、オリーブオイルとわさびと塩で食べることなんて有元さんでないと出てこない発想。
センス抜群の有元さん、暮らしに関する生活エッセイ本もたくさん書かれていて、読む度になかなか真似はできないなと……己の怠惰さを見つめながら、彼女がよく言う「ためない暮らし」という言葉を思い出している(私はすぐにためてしまう!)。
NHKの番組や本で有元さんの自宅やスタジオをよく拝見するけれど、東京や野尻湖、イタリアにも家があり(こんな生活も自分からは遥かに遠い!)、どこもまるで神社のような静謐な空気が流れ、清潔でなおかつスタイリッシュ。
とても同じようにはできないので、実践していることは、有元さんと同じように1日の終わりにシンクを磨き上げることくらい。
有元葉子さんを見ていて、現代において憧れになる女性像は、芸能人や作家ではなく、料理研究家なのかも、と感じたこともある。
そんなふうに、小説や子ども時代に読んだ物語のほかに料理本も自分を作ってくれたのだなとあらためて思い、自分自身の歩みを振り返るきっかけになった。
著者の三浦哲哉氏は、映画批評・研究が専門ということもあり、本書はとてもユニークな料理本の解説本となっていて、読み応えがある。
自身がはまった料理本の記述も面白い(特に丸本淑生さんの章)。
「福島のスローフード」の章もあり、最後は福島の「原発事故と食」を巡ることで締め括られているので、食について大きな視点で考えることも促してくれる。
これからは、気候変動と食材の関わり、なんていう視点で料理を語らないといけなくなるかも、などと思いつつ読んだ。
料理家本人と、その料理家の生み出す料理というのは渾然一体となっていて、奥深い。
私が持っている有元葉子さんレシピ本の一部。

左端の『2品で献立。さぁ、ごはん』はなんと1997年発行、今でもこのレシピを活用している。
有元さんのレシピには、オリーブオイルがよく出てくるが、最近は多用するのにためらいが出るほど、高値になってしまったのが、つくづく悲しい。
有元さんの薦めるイタリアの某オリーブオイルは高価なので購入したことはないが、そこそこ質のいいエキストラバージンオイルが少し前まではわりと気軽に買えたのになあ(泣)。
人生はちょっと遅かった……の繰り返し。 アートディレクター市川敏明さんの思い出

ある日の飛行機雲
年齢を重ねると、当然のことながら、お付き合いのあった方の訃報に接することが増える。
アートディレクターの市川敏明さんのことは忘れ難い。
誰もが知っている有名人、というわけではないけれど、多くの仕事をされてきた方なので、実名を記しておく。
初めてお会いしたのは、D誌という月刊誌の編集部。
2000年から2001年にかけて、もう四半世紀も前のことになる。
私は仕事をあれこれ転々としていた頃で、派遣社員としてD誌にて進行管理の仕事を担当することになった。
市川さんはアートディレクターとして全体のデザインを統括していて、時々編集部にやって来ては、進行管理担当の私の隣の机で仕事をしていた。
編集部の皆から「市川先生」と呼ばれて敬愛されているようで、普通の外部のデザイナーの方ではないなという印象だった。
徐々にわかってきたのだが、D誌の立ち上がりの時からその土台を編集者と一緒に作り、皆にいろんなことを教えてくれた方らしかった。
さて、そのD誌はとにかく忙しい編集部で、残業が多く帰宅時間が見込めず、プライベートでもやりたい仕事があったので、半年程でやめることになった。
半年しか続けなかったなんて、無責任なような、もったいなかったような……当時はまだ30代だったし、派遣だったのでわりと簡単にやめてしまったのだ。
やめる少し前、市川さんに「あなたは編集はやらないの?」と聞かれた。
当時、出版社で編集の経験は多少あったものの、アシスタント程度であまり自信がなく、ライター仕事をちょろちょろやっていただけで、何もかも中途半端にしか仕事をしていなかった。
そのことを言うと、「いや、できるよ。やった方がいいよ」と言われた。
仕事の合間に、昔、NHKで放送された向田邦子のドラマ「阿修羅のごとく」の話題になり、「あのドラマはよかったですね」「えっ、まだ子どもだったんじゃないの?」「再放送で見たんですよ」とか、そんな話をしたことを思い出す。
その後、あまり残業のない派遣先で仕事をしていたが、しばらく経ってから市川さんから連絡をもらった。
知人の編集者が某社のなかで新しい出版部門を立ち上げ、編集者を探しているから、やってみないかとのこと。
いつまでも派遣をしていても仕方ないし、思い切ってやってみることになった。
そこで初めて、住宅関係の単行本をまるまる一冊担当した。
よちよち歩きの編集者ながら、建築家の方に取材したり、素敵な建築家住宅を見学させてもらったりと、刺激的でなかなかに面白い体験をした。
その新しい出版社は労働条件や人間関係がブラックだったりといろいろあり、長くは続けられなかったのだが、いい経験になり、仕事の幅が広がった。
それから紆余曲折あり、ようやくひとつの仕事に落ち着いて十数年経った頃のこと。
折しもコロナ禍の真っ只中の2020年、水俣フォーラム(水俣病を伝える活動を行なっている団体)から市川さんの訃報が届いた。
2020年2月に肝臓がんで75歳で亡くなられたとのことだった。
話は遡る……2011年、東日本大震災のあった年の夏、石牟礼道子さんを取材する機会に恵まれた。
それまで未読だった『苦海浄土』を読むことになり、大きな衝撃を受けた。
もちろん『苦海浄土』のことは知っていたが、水俣病を告発する、厳しく重く暗い作品という一方的な偏見があり、手が出なかったのだ。
ところが読み始めると、私の貧しい想像を遥かに超えた作品であることがわかり、引き込まれた。
水俣の海の豊穣さ、漁民の豊かさ、それがチッソの公害によって破壊されていく苦しみと悲しみが壮大なスケールで美しく描かれていた。
公害の告発文学であると同時に、水俣の海の神話のようでもあり、圧倒された。
(東北の震災と同時に福島の原発の問題もあり、それは水俣の公害と酷似していた)
そうして、2011年にお会いした石牟礼道子さんは穏やかな天女のような方だった。
すでにパーキンソン病を患っていらした頃で、よく会ってくださったと思う。
私が編集の仕事をしていたなかで、いちばん大切な、貴重な思い出だ。
その後、石牟礼道子さんは2018年に惜しまれつつ亡くなり、水俣フォーラム主催の追悼集会に参列した際、寄付と同時に名前と連絡先を記した関係で、そこから市川さんの訃報が届いたのだった。
水俣フォーラムでは、私と市川さんの関係など知る由もないから、石牟礼道子さんがつないでくれた、必然的な偶然と信じている。
石牟礼道子さんの追悼の会の際、実はパンフレットに市川敏明さんの名前は発見していたのだが、その時は、水俣フォーラムにデザインを依頼されてのお仕事なのだろうくらいにしか思わなかった。
まさか数年後に亡くなるとは夢にも思わなかったので、パンフレットで名前を見て、いつかまたお会いしたいなと思っていた。
水俣フォーラムから届いた市川さんの訃報により、水俣の活動にいろいろと関わっていらしたこともおぼろげながらわかった。
水俣フォーラムで市川さんを偲ぶ会が予定されていたのだが、コロナが蔓延している時期で延期が続き、もう開催されないのだろうと思っていたところに、昨年2024年にようやく、再び会の知らせが届いた。
偲ぶ会は2024年2月17日、市川さんに縁のある東京都内の早稲田奉仕スコットホールで行われた(関西に引越しする前でよかった)。
当日は、市川さんのご家族はじめ、関わった方何人かのお話を聞くことができた。
お話を聞くにつれて、もっと市川さんとお話をしてみたかったという気持ちでいっぱいになった。
ご実家は、人形制作の職人さんだったことも初めて知った。
市川さんは水俣フォーラムでは、関わっていたという程度ではなく、展示のデザインなどをはじめ、さまざまな活動のまさに中心になって担っていらしたことも。
水俣病の被害に関して、同時代に生きる人間として思いを寄せずにはいられなかったのだろう。
市川さんに「○○さんはこの仕事をやってみた方がいいよ」と勧められ、なし崩し的に関わることになり、そこから広がっていった……そんな人が私のほかにも大勢いたらしい。
そんなふうに、ハブとなって人と人とをつないでいく力を持った方だった。
市川さんに言われると、なぜかその方へ進んでみようかと思ってしまうのだ。
その人の本質を無意識的に見抜いて、よい方向へ導くという、そんな不思議な力を持っていた。
高圧的なところは微塵もなく、チャーミングで、背もすらっと高く、トレンチコートの似合う、ダンサーの田中泯にちょっと似たダンディな方だった。
隣の席で仕事をしていたというのに、何も知らなかったなあ。
仕事を紹介してもらった頃も、私は自分のことでいっぱいいっぱいで、市川さんがどういう方か知ろうともしなかったことが悔やまれる。
また、実の弟さんが映画監督の市川準氏であることも知り、好きな映画がいくつかあるので、そんなお話もできたのに……と、後から思うことばかり。
ご自身のこともご家族のことも、また水俣フォーラムの活動のことも、ひけらかすようなことは一切口にしなかった。
でも今となっては、そんなところが、市川さんらしいと思う。
と、振り返るにつれ、市川さんが紹介してくれた仕事が、定年まで働くことができた職場に回り回ってつながっていったことに気づき、感謝してもしきれない。
たいして実績もない、ただの派遣社員としてD誌の編集部に入ってきた私を気にかけてくれたことは、本当にありがたいことだった。
私は年を重ねても、市川さんのように人のために動いたり、人と人をつなげたりすることもあまりないままだなあ……。
で、さほど意識はしていなかったが、結局、市川さんの言うとおり、私は、編集者としての仕事が主な人生になった。
もっと早くいろいろなことに気づいて、市川さんがお元気なうちにもう一度お会いできれていれば……と思う。
水俣のこと、石牟礼道子さんのことなど、じっくり話したかった。
話は少し変わって……昔働いていた出版社の元編集長が亡くなり、葬儀の場で初めて知ることがあれこれあって、もっと早く知っていれば見方が変わったのに遅かったなと、そんなことがあった。
行き詰まっていた時に助けれてくれた友人と、疎遠になりつつもそのうちゆっくり会いたいなと思っていたら、彼女の夫から突然訃報が届いた。
いずれもここ数年の出来事だ。
人生はこんなふうにちょっと遅かった……の繰り返しなのかもしれない。
また逆に、亡くなって初めて知らされることも多いから、仕方がない気もする。
先のことはどうなるかわからないから、会いたい人には会って、行きたいところには行って好きなことをするべき、みたいなことをよく聞くけれど、そうもいかないのが日々の暮らしで。
好きなこと、思いついたことを行動に移せる人は、限られる。
時間的、経済的にも、何もかもそう簡単にはできない。
ちょっと遅かった。でも仕方なかった……そんなふうに諦めることも必要なのかもしれない。
そして、いずれ自分もいつかはいなくなる側になる……のだが、まだ実感はあまりない。
市川さんの偲ぶ会が行われた2024年2月17日は、定年退職の最終出勤日の翌日だったので、何かの巡り合わせのようにも感じた。
その偲ぶ会で、水俣フォーラムで一緒に活動された方から紹介された、市川さんの「国も政治も信じられないけれど、編集の力だけは信じている」という言葉が胸に残った。「編集の力」は、「本の力」に置き換えてもいいように思う。
それから、これは偲ぶ会のリーフレットに掲載されていた市川さんの言葉。
デザインが前に出たり、美し過ぎてはいけない。
装飾や附加を避けて、なるべく忠実に見てもらえるように。
「水俣」の記録、表現なら地味でも質そのものを感じてもらえる力がある、ずっとそう考えてきました。
デザインの本質がわかっている方の言葉だなと思うと同時に、市川さんご自身の人生そのものにも重なるような気がする。
亡くなられて5年、偲ぶ会に参列して1年以上経ってから、ようやく思い出をまとめられた。
市川敏明さん、ありがとうございました。
どうか安らかに……。
偲ぶ会当日の献花台。遺影は荒木経惟氏によるもの。

参列者がそれぞれ献花し、帰り際、その中から一輪持ち帰る。石牟礼道子さんの追悼式の時も同じで、こういうささやかな追悼の形はとてもいいなとしみじみと感じた。
ジョン・ウィリアムズの『ストーナー』を読んで。 "諦める、でも歩き続ける"
アメリカで1965年に刊行された『ストーナー』(翻訳版は2014年初版/著/東江一紀訳/作品社)を読んだ。
*以下、いわゆる”ネタバレ”的なものが致命的になる小説ではありませんが、話の大枠はラストまで説明しています。
1891年生まれのウィリアム・ストーナーという、ある大学教師の生涯を描いた小説。
戦争を挟みつつも歴史上の大きな出来事に巻き込まれるわけでもなく、限られた条件のなか自分自身を模索しつつ、ひたすらに文学に身を捧げる、ひとりの男の人生が美しい文章で綴られていく。

主人公のストーナーはあまり裕福ではない農家の出でありながら、父親の勧めで農学を学ぶため、大学へ進学する。
だが、ある教師との出会いで、文学に目覚め、その世界へ邁進していく。
農家出身者がアカデミックな世界へ……苦労続きだが、そんなふうに階層を上がる可能性は現代よりも昔の方があったのかもしれない(と、今のアメリカの社会をニュースなどを見ていると感じる)。
さて、ストーナーは文学研究の道を着々と歩んでいくのだが、苦悩の種になるのが、妻イーディスの存在。
恋愛には縁のなかったストーナーが一目惚れし、結婚に漕ぎ着くことになるのだが、いざ結婚生活が始まると、イーディスは思いがけない面をさらけ出す。
農家出身のストーナーと違い、そこそこ裕福で大事に育てられたお嬢様育ちのイーディスは、あまり豊かなではないストーナーとの生活が不満だったのだろう。
「一カ月も経たないうちに、ストーナーは自分の結婚生活が失敗だったことを覚った」(P87)ことになるのである。
そこからは、何とも苦い展開が続く。
気まぐれでわがままなイーディスの姿は、当時の、自己実現が叶わない抑圧された女性として捉えるべきなのだろうか。
現代だったら、もっと生き生き生きられたのかもと思うが、ストーナーに比べ、妻に関しては冷たい筆致になっていて、どうしても共感できないのだった。
だから、教え子だったキャサリンと文学を通し、道ならぬ関係になってしまうのに対しては嫌悪感は抱かなかった。
心を通わせられる相手が一時でもいてよかったと、そこだけ温かな木漏れ日がさして、きらきらときらめているように感じられた。
ふたりが別れを決意するのは、何もかも捨てて一緒になったりしたら、互いに文学への道は閉ざされてしまうという、冷静な判断によるものだ。
「……わたしは教師生命を絶たれるに等しいし、きみはーーきみも研究を続けられなくなる。ふたりとも別のものに、自分とは違うものになるしかない。わたしたちは自分を見失ってしまう」(P254)
文学がストーナーの人生にとって、いつも核となっている。
そして、娘グレースの存在。
グレースが幼い頃は、父ストーナーとのふたりだけの親密で幸福な時間があった。
しかし、それがイーディスの嫉妬を買ったのか、娘を顧みなかったのに突然過干渉になってグレースは母親の操り人形のようになり、父娘の時間は奪われてしまう。
その後、成長してからもグレースは自分を見失いがちで、アルコール依存症気味みなり、上手く生きていけなくなる。
……この先も、年々少しずつ酒量を増やしながら、穏やかな気持ちでがらんどうの人生に沈み込んでいくことだろう。父親として、少なくともグレースがその道にたどり着いたことを喜び、娘が酒を飲めるという事実を寿いだ。
ここだけ読むとわかりにくいが、グレースが母親との距離を取り、自分自身を分析できるようになり、せめてもの慰めがお酒、それもまたよし、というストーナーの気持ちなのだ。
なんという、淡々とした諦めの気持ちだろうか。
読者はストーナーの幸せを祈るような気持ちでいるのに……悲劇というほどではないにしても、あまり幸せでないことが次々と起こる。
大学でも厄介な人間関係や人事抗争に巻き込まれ、巧みに立ち回れないストーナーは出世の道からも外れされていく。
「訳者あとがきにかえて」にもあるように、「読んでいると、さざ波のようにひたひたと悲しみが寄せてくる」のだ。
それでも、ストーナーは自暴自棄にならずーー酒に溺れたり仕事を放棄したりはせず、愚直なまでにまっすぐに地道に歩んでいく。
同時に、人生に対して諦めてもいる。でも歩き続ける。
その姿には、清らかさというか、潔さすら感じる。
そして、ストーナーは教師であることを求め、その願いをかなえたものの、人生のあらかた、自分が凡庸な教師だったことに思い至って、それはまた、前々からわかっていたことでもあるような気がした。高潔にして、一点の曇りもなに純粋な生き方を夢見ていたが、得られたのは妥協と雑多な些事に煩わされる日常だけだった。知恵を授かりながら、長い年月の果てに、それはすっかり涸れてしまった。ほかには、とストーナーは自問した。ほかに何があった?
自分は何を期待していたのだろう?(P324)
諦めて、多くのことを期待しない(何しろ妻のわがままのせいで、コツコツ進めてきた本の執筆すら断念せざるを得なくなるのだ……)。
でも、微かにでもきらめく時間や、人生の意義や実りが確かにあった(ストーナーにとってそれは文学)。
世の中の大半の人間は、自分も含め天才でも英雄でもないから、そんなストーナーの姿に感動するのかもしれない。
ところで、訳者の東江一紀氏は、闘病中に本書の翻訳を行い、最後の1ページを残し、62歳の若さで亡くなられたとのこと。
その最後のページを訳したのは、「訳者あとがきにかえて」を記した布施由紀子氏。
作中でストーナーも同じくらいの年齢で亡くなるので、奇しくもこの物語と重なってしまう。
東江氏の日本語訳は美しく読みやすく、第1回日本翻訳大賞「読者賞」を受賞している。
日本での刊行からおよそ10年、今でも地道に売れ続けていることを知ったら、どんなにか嬉しかったことだろう。
60年も前に書かれた小説に、時代を超えて日本語で出会えて、「ストーナー」という人の人生に触れることができる。
こんな出会いこそが読書の喜び。
*追記*
日本語版の『ストーナー』は装丁も美しい。
タイトルの上に、本の背の絵がうっすらと描かれ、まるで箔押しのように見える。
カバーをめくると、渋い赤の表紙。

帯はスミクロ。

実は<第1回日本翻訳大賞「読者賞」受賞>の帯がこの上にかかっていたのだが、その帯の裏に「この帯は流通上の広告用に作成したものです。ご購入後は外してください」とあった。
デザイナーさんの指示かな(笑)。
帯も含めて繊細に美しくデザインしたのに、バーンと大きな赤字の本翻訳大賞の帯がかかってしまうのが、デザイナーはよほど嫌だったのかも……と想像している。
美しい手仕事 倉敷ノッティング
倉敷本染手織研究所の倉敷ノッティングが、先週から私の椅子にあります!
この椅子敷が素晴らしいというのはずっとあちこちで聞いていて、でもネット上で探してもほとんど販売されていなくて、あってもどこもかしこもsold outで幻というか、伝説のようだった。
それが、梅田阪急の「くらしのギャラリー大阪」(器や布ものなど上質な民藝品を扱っているお店)@kurashi_g_osakaで販売されることを知り、実際に手に取って見ようと、展示初日に行って来た。
手に取ってみてよければ、と思いつつ、購入はほぼ決まっていたようなものなのですが......ですが、気軽に手が出るお値段ではないので、売り場に行っても、うんうん悩み......。
でも、ここで決めないと、他では入手できるところがないと、迷いに迷って、結局、お迎えすることに。
さまざまな柄の織りがあり、柄を選ぶのにもこれまた迷ったけれど、藍色多めのシンプルなものにした。

ウールと綿があり、私はオールシーズン使えるようにと、綿の方を。
化学染料ではなく、本物の藍染めで(ほかの色もすべて自然の染料)、それで「倉敷本染手織研究所」と命名されているそう。
織物の残糸を使用し、すべて手作業で、倉敷で織られている。
さて、約1週間ほど座ってみた感想は……。
織物でしっかり身体が支えられ、なおかつ適度な暖かみとクッション性があり、ふかふかした座布団類とは違う感触。
西荻窪(東京)の古道具屋で6千円くらいで購入した椅子を何十年も使っていて、だいぶぼろくなってきて、買い替え時かなと思っていたのだけれど、ノッティングのおかげで座り心地が向上。
椅子自体より、何倍もの値段がする椅子敷……当分椅子は購入できそうにないので、この倉敷ノッティングのある椅子に座り続けることになりそう。
裏側はこんな感じ。

実に整然としている。
素人ながら、この裏を見るといかに丁寧にしっかり織り上げられているかがわかる。
本物の藍を建てて(これも実に手間がかかる作業)糸を染めて、ひと織り、ひと織り、すべて人の手で織る。
その過程を考えると、高価といっても、真っ当な対価と思える。
既製品にはない手仕事の美しさ、心地よさは、やはり実際に手に取って見て、使ってみないとわからないもの。
(だから、この写真ではちょっと地味に見えるし、そのよさを伝えるのは難しい)
仕事もやめて家にいる時間が長くなったので、こんな贅沢もいいよねと、未だに自分で自分に言い訳してしますが......この先、一生使い続けることができそう。
暮らしの道具を美しい手仕事の民藝品ばかりで揃えるのは無理だけれど、ピンポイントで、これだけは、というものを思い切って手に入れるのも悪くない。
手仕事の温かみは、暮らしのなかに潤いをもたらせてくれます。
*中川政七商店による倉敷本染手織研究所の詳しい記事
ノッティング1枚できるまで、下準備から通算すると10日かかるそう。
*梅田阪急の「くらしのギャラリー大阪」では、2月9日まで倉敷本染手織研究所の作品を扱っています。@kurashi_g_osaka
うどん、東京(実は香川)の味と大阪の味
遅ればせながら......
🧧あけましておめでとうございます
2025年もこのブログは不定期に、ゆるーくやっていくことになりそうです。
さて、年明け第一弾は「うどん」の話から。
コーヒーも好きだけれど、うどん好きでもある。
蕎麦好きも多いと思うが、私は蕎麦よりうどん派。
蕎麦も美味しいが、あの濃いつゆより、出汁の効いたうどんのつゆが好きなのだ。
だから、讃岐うどん好き。
讃岐うどんに出会ったのは、東京吉祥寺のかつての駅ビル、ロンロン(今はアトレ)に入っていた「折り鶴」という、うどん屋さん。
店名は「折り鶴」だったか、ひらがなの「おりづる」だったかはもう忘れてしまった。
麺にコシがあり、かつお出汁の澄んだつゆでさっぱりと美味しかった。
80年代に吉祥寺の雑貨屋でアルバイトしていたので、お昼によく利用していた。
30年以上も前のことだが、400円台から食べられて価格も手頃で、安い時給で働いていたから助かった。
それまで、関東風の醤油味の濃いつゆのうどんがほとんどだったので、目が開かれた感じ。
きつね、たぬきをはじめ、五目うどん、卵とじうどん......美味しかったなあ。
「折り鶴」は確かロンロンがアトレに変わるタイミングで、三浦屋というスーパーがあったビルの地下へ移転した(三浦屋が吉祥寺駅前にあった頃)。
店名も「綾川」に変わった。
今、書きながら調べたところ、綾川は香川の地名で讃岐うどん発祥の地なのだそうだ。
「綾川」は、メニューも味も変わっていなかったと思うが、「折り鶴」時代と比べると何となく、何かが変わった気がした。
味が落ちたとかいうことではなく、ロンロンに入っていた頃の活気というか、賑わいというか、お店のオーラみたいなものがなくなってしまった感じ。
あのうどん屋は、吉祥寺の駅ビルでないとダメだったんだなあ。
客の入りも少なくなり、私も2、3度行ったきりで足が遠のいてしまった。
もう一軒、忘れ難いうどん屋といえば、東京神保町の「丸香」(まるか)。
2000年代初め、神保町で働いていた時、近所にあったお店だ。
うどん屋のくせに妙にスタイリッシュな店構えだったので、これは当たりか外れかわからないなと思いつつ入ったら、大当たりだった。
固いコシのある麺、透き通った出汁のつゆ、オプションの「○○天」は天ぷらではなく練りものであったりと(関東では薩摩揚げと言うことが多い)、すべて本格的な讃岐うどん屋。
外装も内装もシンプルで清潔感があり、従業員は厨房の人もホールの人もきびきびとしている。
特にうどんを打つ人と天ぷらを揚げる人の動きがリズミカルで見ていると気持ちがよい(ほぼオープンキッチン)。
すべてが、生き生きと躍動している感じのお店だ。
HPは皆無だし、取材もまったく受けない方針のお店だったので雑誌やテレビに出たことは一度もないが、口コミで人気店となったらしく、常時、長蛇の列ができるようになった。
でもお店のオペレーションが優秀なのと、さっと食べてさっと帰る人が多いから回転が早いので、待つのはそれほど苦にならない。
神保町勤務は1年もなかったけれど、その後も神保町に立ち寄ることがあれば、お昼を必ず「丸香」にした。
「丸香」のうどんを食べると元気が出て、生きててよかった、頑張って仕事しててよかったな、なんて、大げだけどそんなふうに感じたものだ。
「丸香」は、お客さんが皆幸せそうなのだ。
初めて来たらしい人が、連れの人に「美味しいね」「旨いね」と言っているのを何度も聞いた。
だから、東京を離れる時、惜しんだお店のひとつがこの「丸香」。
讃岐うどんのチェーン店は全国的に増えたようだけれど、あそこまで本格的な讃岐うどんには、香川に行かない限り、出会えないだろう。
さて、大阪に引っ越して、春から秋になった頃。
大阪出身の方に、南船場にきつねうどん発祥の老舗うどん屋さんがあることを聞いた。
きつねうどんは大阪発祥だったとは知らなかった。
うどん好きの私は興味津々で年末に出かけてみた。
店名は「うさみ亭マツバヤ」。
うさみ亭マツバヤ (うさみていまつばや 松葉家) - 心斎橋/うどん | 食べログ
創業130年!名物おじやうどんの豪華版「うさみ亭マツバヤ」の天ぷらおじやうどん - 船場ランチWEB
「おじやうどん」が名物らしいのだけれど、初回はこの店が発祥だという「きつねうどん」にしてみた。

オプションでちくわの天ぷらも追加。
麺は讃岐うどんほどのコシはないが、かといってふにゃふにゃと柔らかくもなく、程よい感じ。
そして、つゆも出汁が効いていて、丼いっぱいのきつねは大きくふっくらとしていて少し甘く煮てあって美味しい!
讃岐うどんとはまた違う、柔らかなやさしい味わい。
神保町の「丸香」のうどんとの別れは寂しかったけれど、大阪にも好きなうどん屋ができたなと、食べた瞬間に感じた。
ここも「丸香」同様、地元の人に愛されているらしく、ひっきりなしにお客さんが入って来て、ずっとほぼ満席。
私が行った時、お店にいたのは、おじいちゃんで、会計の時にそろばん(!)を使っていた。
そして、帰り際、「おおきに」と言ってくれた。
「おおきに」なんて、再放送の朝ドラ「カーネーション」のなかでくらいしか聞いてなかったから、関東から来た人間からすると、今までいちばん関西っぽいと感じられたお店だ。
味はもちろん、何ということはない普通な感じのお店の佇まいも、お店の人も、何もかもがいい塩梅。

「うさみ亭マツバヤ」の創業は明治26年!
老舗だけど、こだわりの蕎麦屋なんかにありがちな小難しい雰囲気や気取りは皆無、ごく普通な雰囲気がいい。
で、年が明けて、難波の大阪松竹座で玉三郎の公演を観た後、着物のまま道頓堀を抜けて、商店街をずーっとてくてく歩いて、またまた「マツバヤ」に行って来た。
気になっていた「天ぷらおじやうどん」を注文。
おじやとうどんが一緒ってどういうこと?と、ちょっと訝しむ気持ちがあったのだが、これがまた大当たり!

四角い鉄鍋のなかに、うどんとおじやがちょっと離れて入っていて、えび天のほか、卵、穴子、かまぼこ、のり天、ねぎ、生姜、鶏肉、しいたけと盛りだくさん。
おじやとうどんが一緒でも違和感なく、熱々で体も温まり、満足。
大阪でなかなかお気に入りのお店が探せなかったけれど、「マツバヤ」は愛着の持てる ”私のお店” になりそうだな、なんて思っている。
今度行った時は何を食べようかと、今から考えている。
ところで、「丸香」のうどんの写真、なかったかなあと探したら、一昨年行った時の画像を掘り起こせた。

初夏だったので、大根おろしと貝割れの乗った冷たい「ぶっかけうどん」。
そして、ちくわ天と野菜天盛。
天ぷらは作り置きではなく、揚げたてでサクサク。
神保町にはたまにしか行けなかったので、行くとたくさん注文してしまう。
寒い時は、温かいうどんに必ずわかめを乗せてもらっていた。
このわかめが、またフレッシュで美味しかったのですよねえ。
書いているだけで、食べたくなる。懐かしい〜。
「丸香」は今も健在だけれど、ネットで調べたところ吉祥寺の「綾川」は閉店したそうだ。
まだお店があったとしても自分はもう行けないわけだが、閉店と知ると寂しい。
というわけで、「折り鶴(=綾川)」のうどんは、 ”思い出のなかだけの味” になってしまった。
「丸香」も行ける日が来るかどうかわからない.....。
でも、これからの私の人生には「マツバヤ」がある!と思うことにする。
創業130年の「うさみ亭マツバヤ」、これからも末長く続いてくれますように。
カフェラテ、カプチーノ、カフェオレ、コーヒーと牛乳
カフェラテ、カプチーノ、カフェオレといった、コーヒーとミルクの組み合わせがむしょうに好きだ。
カフェラテはイタリア式のミルクコーヒーで、エスプレッソに温めたミルクとフォームミルク(泡立てミルク)、カプチーノはフォームミルク多め、カフェオレはその名のとおりフランス風になり濃いめのコーヒーと温めたミルク半々。
カプチーノは美味しいがミルクの泡が若干多すぎる気がするので、コーヒー多めのカフェラテの方が好み。
カフェラテとカプチーノは、美味しいエスプレッソとフォームミルクが決め手になるので、自宅で作るよりエスプレッソマシンのあるカフェで飲む方が美味しい。
以前は、デロンギの家庭用エスプレッソマシンを持っていて、自宅でもせっせと作っていた時期があった。
でも業務用と比べると圧倒的にパワーがなくて、カフェで出されるものには遠く及ばなかった。
特にフォームミルクのなめらかな泡立ちは比べるべくもなく......。
フォームミルクを作った後のノズルの洗浄も結構面倒で、エスプレッソを作る管が汚れたりしてメンテナンスが大変だった。
だいぶ使って汚れたので手放して、その後購入していない。
チェーン店でカフェラテ、カプチーノがいちばん美味しいカフェは、イタリアのセガフレード・ザネッテイだと思っている。https://www.segafredo.jp/
東京にいる間こよなく愛していたカフェ。
特に吉祥寺店を愛用していたが、十数年前に閉店、渋谷の文化村通りや原宿にもあったけれど次々撤退。
特に渋谷の文化村通りの店舗は面積も広く2階まであり、1階は開放的でちょっとイタリアやフランスのカフェっぽい雰囲気もあって(イタリアもフランスも行ったことないけど)、日本で暮らしているらしい外国人のお客さんがいつも大勢集っていた。
閉店してしまって、あの人たちもがっかりしたろうなあ。
ホットサンドのパニーニも美味しくて、渋谷の文化村通りにあった頃は、Bunkamuraで映画を観た後によく立ち寄っていた。
今はBunkamura自体もなくなってしまい、すべてが遠い思い出......。
以前いた職場の帰り道には、新宿3丁目店があったので、そこも時々立ち寄った。
赤と黒のインテリアがシックで素敵なセガフレード・ザネッティ、日本の代理店があまり積極的でないのか、このチェーン店は少ない。
どこもかしこもスターバックスだらけになってしまった。
(ちなみにスターバックスは、エスプレッソの味が薄く、ダブルエスプレッソにすると追加料金取られるし、好きじゃない。今はどうか知らないけれど、紙のカップだし)
大阪の店舗を調べたら関空と枚方と、うちからは遠方のみ😢
先月、東京に行く機会があったので、久々にセガフレード・ザネッティに行ってみたけれど、えらく値上がりしていて、カフェラテとパニーニを頼むと、1,000円近くになり......以前は700〜800円で収まったのになあと、遠い目。
というわけで、今は大阪で美味しいカフェラテを飲めるところを探す日々。
大阪にもドトールやサンマルクカフェはたくさんあるが、そういうチェーン店のカフェラテはコーヒーの味が薄く、美味しくないのであった......。
先日行った大阪、南船場の「パンとエスプレッソと 堺筋倶楽部」というカフェにて。

久々に、美しいフォームミルクの本格的なカフェラテを味わうことができた。
お供はスパイシーなバナナケーキ。
上に乗っているハーブはタイムでした。
ここは、大正時代の銀行を改装したお店で、金庫の重厚な扉などがそのまま残されていて、天井が高く、素敵なカフェ。タイル貼りのテーブルもいい感じ。

大阪にはこういった近現代の名建築ビルがたくさん残っていて、さすが昔からの商人の街。外観はこんなふう↓

ここは夏に行った、梅田から少し歩いた所にあるOMO&COFFEEという、和食の料亭みたいな佇まいのカフェ。https://www.instagram.com/omo_and_coffee/


大きな木のカウンターが気持ちよく、店内にはなんと石庭のコーナーも。
この日は、暑かったのでカフェラテのフロートを注文、コーヒーは適度な苦味と濃さで美味しかった。
その昔、百貨店で食器の販売員として働いていた頃、従業員用の食堂にコーヒーフロートがあり、休憩時間に毎日のように飲んでいたっけ。
ほんとに、コーヒーとミルク(バニラアイスとかも)の組み合わせが好きなんだなあ。
カフェラテとカプチーノは外で飲むものと決めて、といっても、そうしょっちゅう出歩けないので、今はもっぱら家でカフェオレを飲む日々。
私のカフェオレの作り方は、エスプレッソ用の粉を通常の倍くらいにして、ドリッパーでペーパーフィルターを使って落とす。
ミルクはコーヒーと同量くらいを温める。
この時、鍋ではなく、小さな掌サイズの土鍋で温めているのだが、これがまたいい具合に温まり、洗うのも楽。
ところで、自分の好きな味がいつから好きになったか、だいたいはいつの間にかとか、何となくということが多いと思うが、このコーヒーとミルクに関しては、私には、はっきりとした記憶がある。
小学生のまだ2、3年生の頃、昭和の時代、家には親が飲むためのインスタントコーヒーがあるだけで、本格的な淹れ方はしていなかった。
少し年上の従姉妹が遊びに来た時、牛乳にインスタントコーヒーと砂糖を混ぜると、美味しいよ、コーヒー牛乳になるよと教えてくれて、一緒に作ったのだ。
冷たい牛乳にいきなりインスタントコーヒーを入れたのか、お湯で少し溶いたのか、覚えていないけれど、それが随分と美味しく、何杯も作って飲んだ。
牛乳にコーヒーをぐるぐると混ぜて、白い牛乳が茶色くなっていく過程も、自分たちで作るのもおままごとみたいで楽しかったのだと思う。
銭湯のコーヒー牛乳が好きだった人は多いと思うが、私にとってはその自家製コーヒー牛乳が、コーヒーと牛乳の組み合わせはやけに旨い!と感じた最初の思い出。
ということを、カフェラテやカフェオレを飲む時にいちいち思い出さないが、時折ふっと思い出し、おかしくなる。
そんな子どもの頃のことや、今はもうない大好きだったカフェの思い出が、コーヒーに入れたミルクのようにくるくる回る。
というわけで、クリスマスの今日もカフェオレを飲んでます🎄☕️

夢や記憶の種はどこに?
他人の夢の話は面白くないと思うけれど......数日前にちょっと気になる夢を見たので、書き留めておく。
前後関係は忘れてしまったが、テーブルにシルバーのカトラリーセットをずらりと並べてケースに入れていた。
販売して発送しようとしていたのか、自分が使おうとしていたのか、何をしていたのかは思い出せない。
一度目が覚めて、同じ夜に見た次の夢はこんな感じ。
場所は紅茶の茶葉を売るお店。
私が働いているわけではなく、眺めている。
フランスのフレーバーティーによくあるような、茶葉のなかにきれいな色の、よい香りのする花びらなんかが入っている紅茶を売っていて、なかなか高級なお店。
店員は全員女性。
こういうお店で働くには、きちんとメイクして髪も整えて、制服を着ないといけないから大変なのよね、と私は思っている。
その店員さんのなかに、昔一緒に働いていたTさんという、私よりひと回り上くらいの女性がいた。
もう30年以上前のことになるけれど、私はジノリというイタリアの食器の輸入代理店で働いていて、新宿の某百貨店に販売員として出向していた。
Tさんは、フランスのクリストフルというシルバーのカトラリーの輸入代理店からの出向社員で、所属する会社は違ったけれど、同じ売り場にいたのだ。
今は、大抵どの百貨店も各ブランドごとに区切られて、お洒落で洗練された店舗になっているが、昔は輸入食器コーナーという大きな括りに一緒にされていることが多かった。
そのうえ、外部の出向社員は、その百貨店の制服を着ることになっていた。
お客さんは当然そんなことはわからず、私たちをその百貨店の従業員と思うから、担当者が不在だったりすると、自社製品以外でも接客する義務があった。
随分と百貨店側に都合のいいシステムだったと思う。
その製品についての知識もないのに、知ったかぶりして接客したり、販売までするはめになって、よその会社の棚の在庫ををがさがさ探したりしたものだ。
でも、そういう負担があったせいで、出向社員同士は仲良くなった。
百貨店側の社員の福利厚生がよくて、私たち外部の人間より休みが多かったりしたので、そういう不満を言ったり、愚痴を言ったりと、そういうので結託していたと思う。
Tさんとも、そんなふうに愚痴を言い合ったうちのひとり。
で、Tさんのことは最近まったく思い出していないのに、なぜ突然、夢に出てきたのかが不思議で。
夢は、昼間の思考や行動の残骸らしいのだが、そういうきっかけもない。
強いていえば、初めに見た夢がシルバーのカトラリー → Tさんがいた会社がシルバーのカトラリーを扱っていたから、夢のなかで、その前の夢を思い出した......というのはあり得るか?
いやいや、そんな眠りながらの思考の展開は考えられない。
まあ、夢なんて、混沌としているので、探っても意味はないのかもしれない。
私がその仕事を辞める時、Tさんは餞別として、ティースプーンを1本プレゼントしてくれた。
クリストフルのリュバンという、リボンの柄が縁にぐるりと入ったティースプーン。
売り場で、その柄が好きだとTさんに言っていたような記憶があるから、それを選んでくれたのだと思う。
思えば、それを贈ってもらってから、紅茶を飲む時は、そのティースプーンを30数年、日々使ってきたことになる。
Tさんとはそれほど親しかったわけではなく、売り場以外のプライベートな場で会ったりはしていなかった。
もの静かで、すごーく控えめで、優しい人だった。
その後のことはわからないが、当時は独身だった。
🥄クリストフルのリュバンのティースプーン、大きさも手に感じる重みも絶妙なバランスで、変色しても磨くとピカピカになる。
多少傷は付いてしまったが、それも味わいで、30数年経ってもまったく劣化せず、飽きがこない。
よいものというのは、まさにこういうものを言うのだと感じる。
以前、このリュバンシリーズで、一式揃えようかと思ったこともあるけれど、ティースプーン1本なら磨くのも苦にならないけれど、ディナーセットを磨くのは大変だし、何より、やはりその価格故に結局買わず仕舞い。
最近になって、輸入の高級食器類はますます値上がりし、もう本当に手が届かないものになってしまった。
カトラリーは、ステンレスのシンプルなのでいいやと思っている。
で、そもそもクリストフルのリュバンシリーズはすでに廃盤になっていた(しばらく特別生産はしているらしいが、価格は上昇)。
Tさんに関しては、もうひとつ思い出というか、偶然の出来事があった。
これももう、10数年前のことになる。
吉祥寺のアトレ1階に、神戸屋というパン屋のカフェがあった頃のこと。
仕事帰りに、そこで時々カフェラテとエッグタルトなんかを食べてひと息つくのが楽しみで、そんな時間を過ごしている時、隣席にTさんが座ったのだ。
長年会ってなかったし、最初はTさんかどうか自信がなかったが、友人らしき女性とふたり連れだったので、聞こえてきた会話でTさんと確信した。
何の話だったのかよくわからなかったが、何かをすごく譲り合っていて、Tさんが「いいわよ、私はいいから」と繰り返していて、ああ、この言い方、遠慮しがちなこの感じは彼女に間違いないなあ、変わってないなあと。
住まいも都下の方だと聞いた記憶があったような、なかったような。
でも、その昔、私にクリストフルのティースプーンを贈ってくれたTさんは、私に気づくこともなく、私もTさんに声をかけなかった。
私は時々、そういうことがある。
街中で、ああ、昔会ったことのある○○さんだ、と思い出すのだが、その後、これといって関係性がもうなくなってしまった人には、大抵は声をかけない。
こちらが覚えていても、先方は覚えていないかもしれないと、気が引けてしまうのだ。
で、きっとその逆のこともあるのかもしれないなあとも思う。
誰かが私を見かけて、ああ、と思うけれど、声はかけない。
こちらは気づかない。
で、そんなことも、東京にいない今となっては、もう起こらないのだろうけれど。
神戸屋のカフェは、Tさんを偶然見かけてから間もなくのことだったと思うけれど、店舗スペースの効率化のためか、パン売り場だけ残してカフェは消えてしまった。
人だけでなく、物も場所もうつろう......。
吉祥寺の好きなお店はどこもかしこも閉店してしまったことを思い出し(インテリアのMIYAKEとか、駅前のカフェセボールとか、etc.)、さらに私自身が遠方に移住し、もう吉祥寺の街を歩くこともなくなり、ただただ記憶の箱に集積されるだけだ。
という、これといってオチのない話でした。
でも、夢の種というのがどこから生まれてくるのか不思議だ。
そして、脈絡のない夢の中から思い出したTさんのこと。
夢とは別に、記憶というのも不思議だと思う。
2年前の春、上野リチの展覧会に行った時のこと(上野リチはウィーン生まれで、日本人と結婚し、日本で活躍したデザイナー。1893〜1967年)。
手袋のデザインの絵があった。
🌲モミの木っぽい葉に、お花の手袋。
ふいに、幼い頃、真っ白な毛糸に甲のところにクリスマスツリーの立体的な刺繍がしてある手袋を持っていたことを思い出した。
凝った刺繍で、確かツリーの上部に金属の小さな星か鈴が付いていたような気がする。
きれいで可愛くて、子ども心にもうっとりするものだった。
子どもが身につけるもので、あんなに丁寧に作られたものは今は滅多に見かけない。
私の手袋の刺繍のツリーは、上野リチの絵柄より小さかったが、ちょっと似ていたので、そこから記憶が引き出されたのだろう。
でも、普段は思い出したこともない半世紀以上も前の手袋のこと、その手袋の記憶はどこにしまい込まれていたのだろう?
夢や記憶の種はどこに眠っているのだろう?
今も日々使っているクリストフルのティースプーンと、上野リチ展での手袋の絵(手袋の形のポストカードになっていた)。

Tさん、素敵なものをありがとう。
と、もう届かないお礼を再び言ってみる。
思えば、毎日このティースプーンを使っているのだから、「最近まったく思い出していない」と書いてしまったけれど、もしかしたら無意識にTさんの姿が心(というか脳?)のどこかにインプットされているのかもしれない。
Tさんは当時から、「大変だからこの仕事はあまり続けたくない」と言っていたし、私より年上だったからクリストフルはもうとっくに辞めているのだろうけれど、人柄そのままに穏やかに、平和に暮らしていたらいいな。