藤井風「花」MV、さらなる考察
前回に続いて、またしつこく藤井風の「花」 MVについてです。
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11月24日金曜の夜に公開された、「花」のMV、この1週間で何回見たことか。
平日の忙しい日も、寝る前に1回は見ていた。
心身が浄化されるような気がするので。
いや、気がする、ではなく、実際に浄化されているのだと思う。
能を聴くと、長生きするという話をこの前聞いた。
能楽師による発声は聴く人の琴線に触れ、よい影響を与えるのだという。
深い見識はないが、私も何度か能の生の舞台に触れたことがあるので、それは実感する。
能楽師と声の質は全然違うが、藤井風の声と歌にもそんな気の流れのよさがあるんじゃないかと思う。
さて......「花」のMV、見れば見るほどいろんな想いが湧いてくる。
「黒風」に対して、「花風」がハイヤーセルフという捉え方もできるが、さらにまた、ちょっと違う角度で考えてみた。
棺を引く「黒風」は、現生に生きる人間を表しているのではないか。
人はそのいのちの役目を終えた時、重い肉体から解放され、魂は自由に飛び回り踊る。
つまり、死は決して悲しいことではない、ということの表現なのではないかと。
「花風」のビジュアルのイメージとなっていると思われるメキシコの「死者の日」のお祭り、また、にぎやかなジャズで送るニューオリンズの「ジャズ葬」など、弔いの儀式には明るく、はなやいだものがある。
特に、ニューオリンズの「ジャズ葬」なるものは、虐げられてきた黒人にとって、死は過酷な現生からの解放、という意味合いが込められているそうだ。
日本のお葬式とはまったく違う文化。
日本では、死が不吉で忌まわしいものとして考えられすぎているのかもしれない。
棺からよみがえった「花風」があまりにも軽やかで美しくて可愛くて、存在自体の純度というか透明感すごくて、何度見ても胸が震えるので、これはいったい何なのだろう?と、つい考えてしまうのだ。
花の精霊か何かのように見える。
このMVの中の藤井風は、今まで以上に本来の藤井風がくっきりと表現されているように感じた。
そして、死後の世界からの精霊ーーつまり人間ではないーーのように見えて、美しいと同時に、悲しさみたいなものも感じてしまった。
......と、考察というほどのことではない、とりとめのない文章になってしまったけれど。
『インドの信仰と仮装』(青幻舎)という本ある。
世界中の祝祭や信仰の場での仮装を撮っているシャルル・フレジエという、ユニークな活動をしているアーティストの写真集(画像は青幻舎のHPより)。
膨大な数のインドの仮装写真が収録されていて、とっても面白いのだが、中に鮮やかな衣装を身に纏い、顔も布で覆っている仮装があった。
それは邪気を払う衣裳(あるいは神様?)だか、踊りだかで(今、職場に本があるので詳細がわかりませんが)、「花」のMVで焚き火の周りで踊るダンサーたちがまさにそれだ!と(私だけの解釈だけど)。
顔が布で覆われていて、初めはちょっとこわい感じがしていたのだが、邪気を払う踊りなのかと思うと、俄然、見方が変わる。
毎晩見ていたのも、無意識に邪気払いをしていたのかも!
というわけで、自分が知らないことなども、もっともっとたくさん込められている映像なのかもしれない。
こんなに深い映像と音楽を創ってしまって、次もまた前回を超えようとすると大変なことになるのではないか? なんて思うのは、余計なお世話ですね。
こちらの想像をするりと超えて、きっとまた新しいものが生まれるのでしょう。
それを楽しみにしつつ、生きていきます。
*余談*
MVのなかでの藤井風の運転姿が話題になっていたけれど、今日、インスタに免許の写真が!
このMVのために取得したんだね〜。
Workin' Hardな日々のなか、すごいなあ。
どんどん遠い世界に羽ばたいていってしまうような気もしつつ😅、おめでとう。
でも「きらり」のMVのためだけに取得したバイク免許と同様、
「ふだんは乗り回したりしないので、ご安心を」
という、マネージャーずっずさんの声が聞こえてきそう。
ふだんの仕事の時はずっずさん運転に決まってるよね(車とかほしがってそうな感じが全然しないので、勝手にそう思ってる)。