九月ウサギの手帖

うさぎ年、9月生まれのyukiminaによる日々のあれこれ、好きなものいろいろ。

今さらブログ? 今だからこそブログ?

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2020年 元旦の夕陽のなかの富士山

 以前書いていたブログ、2016年で更新は止まっていた。

kate-o.cocolog-nifty.com 

 311の震災後、情報入手のためTwitterを始めて、その手軽さからそちらにどっぷり。 だから、ブログは2016年までといっても、2011年からその数年間は、1年に1回くらいの「年1」ブログに成り果てていた。

 
 やがてTwitterも、140字で書いていくことの限界を感じ始め……そもそも、何かまとまった考えをきちんと表明するツールではなく、その時々のつぶやきをタイムリーにあげていく場なので、限界も何もないのだろうが。
 世の中的にもいつの間にか、Twitterはかなりの勢いで広まり、ヘイト的な言葉が蔓延したり、炎上したり。
 
 一方、私のように、短い文で気の利いた面白いことをつぶやけないアカウントは、ツイートしてもただただタイムラインのなかを浮遊し、するすると流れ消えていくだけなので、虚しい気持ちになるのだった。
 で、何年もほぼ「年1」更新だったブログ、アクセス解析を見ると、人気のある過去の記事については、細々ながら数年経っても日々、誰かしら読みにきてくれるのだった。
 有料記事ではないから、お金になるわけでなし、何になるわけでもないのだが、泡のように消えていくTwitterの言葉と比べて、その違いは大きい。これってどういうことなのだろう?と思った。
 思えば、自分自身も何か調べたい時をはじめ、よいものを読んだり観たりして感動した時、その思いを共有したくて、ネットであれこれ検索しても、Twitter上では細切れの短い感想ばかりで、まとまった記事を読めず、やはりブログに辿り着くことが多かった。その都度、ああ、まだこうやって長い文章を綴っている人がいるんだなとしみじみする。
 私の「人気記事」(わずかな記事だが)もそうやって細々と読まれているのかもしれない。
 Web上の発信の場としては、TwitterFacebook、インスタグラムなどのSNSへと移行していく人が多いなか、不特定多数に開かれたブログの役割というのは何なのか考えるべきなのかもしれないが、私は再開してみたいと思うようになった。

 そんななか、こんなブログ記事を発見。
 もはやブログは、今やめったにかかってこない「固定電話」のようなものではないか、という。
 

fujipon.hatenablog.com

 以下、上記の記事より引用。

「ブログというものが消える、というよりは、Twitterやインスタグラムが、ブログの要素を取り入れていって、「短いブログ(写真付き)」として利用され、長文を書きたい人、読みたい人だけが既存のブログに残る、ということになっていくのではないかと思います。
僕もこれまで「互助会」をさんざん槍玉にあげてきましたが、これからどんどん限界集落化していく長文ブログの世界では、「長文ブログ全体が互助会化していく」のかもしれません。互助会でもないと、そんな長文誰も読まないよ、みたいな感じ。
(略)
ただ、みんなが「短文でわかりやすい主張」をSNSで繰り広げていけばいくほど、「ニュアンスやグレーゾーンを掬い取れる既存の長文ブログ」が、一定の役割を果たし、好事家からは地道に支持されるという可能性もありそうです。あくまでも「地道に」ですが。」

 ブログの「限界集落化」という表現が的確すぎて笑ってしまったけれど、それはそれでよいのでは……という気持ちも。
 
 以前、NHKの番組で、京都の山奥で(ネットで調べたら京都・綾部の古屋地区という所だった)、トチの実でクッキーを作っている、平均年齢ほぼ90歳(!)の女性たちが紹介されていたのを思い出した。
 
 山奥で、本来は食べにくい固い木の実をこつこつと収穫して、お菓子を焼く。
 そんなイメージのブログがあっててもいいんじゃないかなあと。
 限界集落は何かと問題視されて、実際、問題山積みなのだが、便利な都会に移動せず、自立の道を探ってこつこつ働いている人たちを否定はできないと思う(合理化だけがすべてではないというか)。

 ブログを始めるにあたっての長い前置きのような文章でした。
 2020年もすでに2月に突入していますが、今度こそ「年1」にならないよう、せめて「月1」ブログくらいにはなることを目指します!
(と、ここまで書いて、やっぱり私は長い文章が書きたかったのかなと思いつつ……)