残酷な神が支配する②――これはイアンの物語
前回から引き続き書いた、第2弾の記事(2006年11月23日付け)です。
前回はこちら
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今回、読み返して、自分が書いたものながら大きく変化した部分がある。
下線部分のところ、これは13年以上前に書いた時の正直な気持ちであったが、今はまったくリンドン寄りなのだ。
依存症などについても、カウセンラーなど専門家から、家族が保護し、過剰に助けようとすることが本人自らの更生を阻む、家族は自分の人生を生きるべき、というようなことが言われるようになり(つまり専門家の助けを求めなさいと)、この十数年でいろいろな認識が変化したことを感じる。
というわけで、自分自身が書き残したものを読み返すと、自分の変化に気づくなあということを発見!
ここから、その転載記事です。
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『残酷な神が支配する』は、ジェルミを中心としているように見えて、実はイアンの物語でもあるのでは?ということを考えた。
否応なく巻き込まれてゆき、イアンも自分自身と深く向き合わざるを得なくなるから。
それはある程度わかっていたけれど、ジェルミを救おうとするイアン、という単純な図式で捉えていたのだけれど、実はジェルミの存在によって支えられている――というと、ちょっと語弊があるかもしれないが、イアンの方がジェルミを必要としていた、という捉え方もできるのではないだろうか?ということ。
と思うと、ますますこの物語が深まってゆく……。
保険調査官として登場し、たびたびイアンに親身になってアドバイスをするリンドン。
「愛や同情は助けにはならない。愛していればいるほど苦しみは過剰になり倍になり、二人をおそう」
という、まっとうな彼の言葉。
そう、彼はしばしば、専門家に任せなさい、でないとあなた自身が潰れる、というようなことを忠告する。
リンドンの言うことは、しごくまともで理解できるのだけれど、自分は冷静さに欠けるのか、私は読むのがつらかった。
リンドンの言うことは極めて冷静で正しく現実的なのだが、でも、その先に何かあるのではないか、その先にあるものを見たい、と願ってしまうのだ。
また、ジェルミの虐待シーンが惨いので読むのがつらいという側面もあるけれど、たぶん読み手に、根源的な問い――人は人を救えるのか、愛するということは何なのか――を突きつけてくるから、つらいのだと思う。
ジェルミは、愛を拒絶する。
その点も、読んでいてかなりつらいところだったことに気づく。
いくら手を差し伸べても、振り払ってしまう。
せめてジェルミが苦しみながらも、救いの手を求めている姿が見えれば、ほっとできたのだと思う。人は壊れてしまうと、愛を乞うこともできなくなるのか、というのがつらかったのだ。
そして、『残酷な神が支配する』は、ジェルミの虐待を巡る苦難の物語であると同時に、イアンの内面への旅の物語でもあったのだ。
現実は、たぶん、誰かひとりに救いを求めるというより、いろんな人との関わりのなかで少しずつ助けられていくものなんだろうと思う。
私も、いろいろな人に、少しずつ助けられ救われて、今があるような気がする。
一方、果たして、私自身は誰かの支えになっているのだろうか?
誰かを助けたことがあるだろうか?
傷つけられたことは覚えているけれど、誰かを傷つけ忘れてしまったこともたくさんあるのではないだろうか?
などと自分を振り返りると、なんとも心許ない。
そんなことを思いつつ……『残酷な神が支配する』は、私の心に奥深く住み着いてしまったようだ。