SNSと「死」の問題
なんだか不穏なタイトルかもしれないが、思うところがあり、書いてみた。
Twitterをとりとめなく見ていると、自分のまったく知らない方の訃報に接することがある。
自分は知らなくても何らかの分野で著名だったり、人気だったりという方で(もちろん一般の方もいる)、亡くなられた後、遺族がそのことを報告しているという形だ。
そういった訃報に接すると、どうしてもその方のアカウントを訪ね、しばらくTL(タイムライン)を読んでしまう。
ブログなども書いている人が故人となると、それは更新されず、永遠にインターネットの海を漂っていくのだろうか。
遺族が知っていれば、訃報を載せることができて、区切りがつくが、そのためには、生前きちんとコミュニケーションを取り、PCやブログサービスのパスワードも知らせておかないといけない(あるいは、エンディングノートに記載しておくとか)。
でも、急死したりした場合は何も準備していないことの方が多いだろう。
PCを見るのは家族でも憚られると、そのまま全データを消去して廃棄してしまうという話も聞く。そうなると、ある日、突然すべてが消滅する。
逆に、ネットで契約していたものなど、もろもろ解約しないと、ずっと引き落としだけされたりとか、なんかもう、ほんとにいろいろ面倒だよなあと思う。
そんなことを常日頃から、つらつらと考えている。
というのも、以前仕事でエンディングノートの編集をしたことがあり、普通の人よりは「そういうこと」を考える機会が多かったせいかもしれないし、あるいは年齢的なことも大きいかも。
とりたてて重い病気もなく(今のところは……小さい病気、不調はいっぱいある)、「死」を意識するにはまだ先だが、人生も折り返し切って、今まで生きてきた時間の倍はもう生きないと思うと、にわかに「そういうこと」が身近になる。
そのわりには、エンディングノートを編集したくせに、自分で書いたりはまだしていない。
で、そんなふうに考えるともなく考えていたなか、最近、すごく興味深い話を聞くことができた。
作家・思想家の東浩紀氏の会社(取締役は別の方)ゲンロンというところで、ゲンロンカフェhttps://genron-cafe.jp/というイベントがある。様々な分野の専門家を招いてのトークをニコ生で放送している(有料)。
Twitterをとりとめなく見ていると、自分のまったく知らない方の訃報に接することがある。
自分は知らなくても何らかの分野で著名だったり、人気だったりという方で(もちろん一般の方もいる)、亡くなられた後、遺族がそのことを報告しているという形だ。
そういった訃報に接すると、どうしてもその方のアカウントを訪ね、しばらくTL(タイムライン)を読んでしまう。
ブログなども書いている人が故人となると、それは更新されず、永遠にインターネットの海を漂っていくのだろうか。
遺族が知っていれば、訃報を載せることができて、区切りがつくが、そのためには、生前きちんとコミュニケーションを取り、PCやブログサービスのパスワードも知らせておかないといけない(あるいは、エンディングノートに記載しておくとか)。
でも、急死したりした場合は何も準備していないことの方が多いだろう。
PCを見るのは家族でも憚られると、そのまま全データを消去して廃棄してしまうという話も聞く。そうなると、ある日、突然すべてが消滅する。
逆に、ネットで契約していたものなど、もろもろ解約しないと、ずっと引き落としだけされたりとか、なんかもう、ほんとにいろいろ面倒だよなあと思う。
そんなことを常日頃から、つらつらと考えている。
というのも、以前仕事でエンディングノートの編集をしたことがあり、普通の人よりは「そういうこと」を考える機会が多かったせいかもしれないし、あるいは年齢的なことも大きいかも。
とりたてて重い病気もなく(今のところは……小さい病気、不調はいっぱいある)、「死」を意識するにはまだ先だが、人生も折り返し切って、今まで生きてきた時間の倍はもう生きないと思うと、にわかに「そういうこと」が身近になる。
そのわりには、エンディングノートを編集したくせに、自分で書いたりはまだしていない。
で、そんなふうに考えるともなく考えていたなか、最近、すごく興味深い話を聞くことができた。
作家・思想家の東浩紀氏の会社(取締役は別の方)ゲンロンというところで、ゲンロンカフェhttps://genron-cafe.jp/というイベントがある。様々な分野の専門家を招いてのトークをニコ生で放送している(有料)。
つれあいが会員で情報を教えてくれるので、そのゲンロンカフェの昨年末の大晦日のトークイベント「ニッポンの展望#7 2010年代終結の陣 宮台真司 × 西田亮介 × 東浩紀 」を聞いてみた(残念ながら、この回は放送終了)。
2010年代の出来事を語っていくのだが、話は多岐にわたり、そのなかで会場にいた方の質問を受けて、「自分の経験は、自分の固有のもの」ということから、今のITの世界と個人との関わりについての話が、自分が「考えるともなく考えていた」ことをはっきりと照らしてくれるものだったのだ。
端折っているし、言葉もそのとおりではないが、東浩紀氏の主張をメモしてみた。
まずは、人間の文化というものについて。
「経験を受け渡され、自分の経験を受け渡していくことで文化が成立していく。人と一緒に生きるということは、何かを共有すること」
であるという。
例えば、「歌舞伎役者の襲名など、同じ名前が何人もいるということで、それが伝統」である。
だから本来は、「二代目宮崎駿とかいるべきで。会社もそうだし(二代目東浩紀とか)」であるべきなのだが、ということから、こんな問題提起がされた。
「民主主義とSNSの世界も問題。(略)
SNS=人が死ぬと受け継がれない。アカウントは継承できない」
「今のITの世界は人が生まれて死ぬのを前提としたサービス。
(人は)本当は自分だけでは完結しない。
誰かに受け渡すことによって継承されていく、
それがまったくサポートされていない。
社会に適応したサービスを作っていないという問題がある」
それは、「人間とは何なのか?」という問題にあたるわけで、「哲学的な問題と同じ」であると。
「自分の買った本は誰のものなのか? 自分のものではない気がする。
でも電子書籍のサービスでは周りの人間には分け与えることはできない」
そもそも「そういう議論がない」ことが問題なのだと。
「20代後半くらいのベンチャービジネスやってるやつが、買うってこんな感じじゃね?と作ったものがデフォルトになっている……というのは大変間違っている」
最後の「買うってこんな感じじゃね?」には思わず笑ってしまったが、案外、笑い事ではないかもしれない。
「買うってこんな感じじゃね」と、amazonなども発展していったのだろうし、私も大変便利に利用させてもらっている。
でも確かに、自分が死ぬことなど(当時は)想定しなかったであろう20代、30代だった若い人たちが設計した世界であることは事実。
誰もが年を取り、今盛んに利用している世代も、自分を含めこれからどんどん亡くなっていく。
そういうことは想定されていなかったという印象は拭えない。
人類の歴史は何百万年、いや何千万年(?)も前からあるけれど、PCが一般の個人の生活に入り込んでやっと四半世紀くらいなのだから仕方ないのかもしれない。
結論は全然、まったく出ないのだが、Webの世界やSNSと「死」の問題はもっと議論されるべきだと思うし、私自身もそれなりに考えてみたいテーマだ。
そんなことを語るにしても、やはりTwitterの140字では足りない。だからブログ。
というわけで、前回からの続きのような文章でした。