九月ウサギの手帖

うさぎ年、9月生まれのyukiminaによる日々のあれこれ

夢や記憶の種はどこに?

他人の夢の話は面白くないと思うけれど......数日前にちょっと気になる夢を見たので、書き留めておく。
前後関係は忘れてしまったが、テーブルにシルバーのカトラリーセットをずらりと並べてケースに入れていた。
販売して発送しようとしていたのか、自分が使おうとしていたのか、何をしていたのかは思い出せない。
一度目が覚めて、同じ夜に見た次の夢はこんな感じ。
場所は紅茶の茶葉を売るお店。
私が働いているわけではなく、眺めている。
フランスのフレーバーティーによくあるような、茶葉のなかにきれいな色の、よい香りのする花びらなんかが入っている紅茶を売っていて、なかなか高級なお店。
店員は全員女性。
こういうお店で働くには、きちんとメイクして髪も整えて、制服を着ないといけないから大変なのよね、と私は思っている。
その店員さんのなかに、昔一緒に働いていたTさんという、私よりひと回り上くらいの女性がいた。
もう30年以上前のことになるけれど、私はジノリというイタリアの食器の輸入代理店で働いていて、新宿の某百貨店に販売員として出向していた。
Tさんは、フランスのクリストフルというシルバーのカトラリーの輸入代理店からの出向社員で、所属する会社は違ったけれど、同じ売り場にいたのだ。
今は、大抵どの百貨店も各ブランドごとに区切られて、お洒落で洗練された店舗になっているが、昔は輸入食器コーナーという大きな括りに一緒にされていることが多かった。
そのうえ、外部の出向社員は、その百貨店の制服を着ることになっていた。
お客さんは当然そんなことはわからず、私たちをその百貨店の従業員と思うから、担当者が不在だったりすると、自社製品以外でも接客する義務があった。
随分と百貨店側に都合のいいシステムだったと思う。
その製品についての知識もないのに、知ったかぶりして接客したり、販売までするはめになって、よその会社の棚の在庫ををがさがさ探したりしたものだ。
でも、そういう負担があったせいで、出向社員同士は仲良くなった。
百貨店側の社員の福利厚生がよくて、私たち外部の人間より休みが多かったりしたので、そういう不満を言ったり、愚痴を言ったりと、そういうので結託していたと思う。
Tさんとも、そんなふうに愚痴を言い合ったうちのひとり。

で、Tさんのことは最近まったく思い出していないのに、なぜ突然、夢に出てきたのかが不思議で。
夢は、昼間の思考や行動の残骸らしいのだが、そういうきっかけもない。
強いていえば、初めに見た夢がシルバーのカトラリー → Tさんがいた会社がシルバーのカトラリーを扱っていたから、夢のなかで、その前の夢を思い出した......というのはあり得るか? 
いやいや、そんな眠りながらの思考の展開は考えられない。
まあ、夢なんて、混沌としているので、探っても意味はないのかもしれない。

私がその仕事を辞める時、Tさんは餞別として、ティースプーンを1本プレゼントしてくれた。
クリストフルのリュバンという、リボンの柄が縁にぐるりと入ったティースプーン。
売り場で、その柄が好きだとTさんに言っていたような記憶があるから、それを選んでくれたのだと思う。
思えば、それを贈ってもらってから、紅茶を飲む時は、そのティースプーンを30数年、日々使ってきたことになる。

Tさんとはそれほど親しかったわけではなく、売り場以外のプライベートな場で会ったりはしていなかった。
もの静かで、すごーく控えめで、優しい人だった。
その後のことはわからないが、当時は独身だった。

🥄クリストフルのリュバンのティースプーン、大きさも手に感じる重みも絶妙なバランスで、変色しても磨くとピカピカになる。
多少傷は付いてしまったが、それも味わいで、30数年経ってもまったく劣化せず、飽きがこない。
よいものというのは、まさにこういうものを言うのだと感じる。
以前、このリュバンシリーズで、一式揃えようかと思ったこともあるけれど、ティースプーン1本なら磨くのも苦にならないけれど、ディナーセットを磨くのは大変だし、何より、やはりその価格故に結局買わず仕舞い。
最近になって、輸入の高級食器類はますます値上がりし、もう本当に手が届かないものになってしまった。
カトラリーは、ステンレスのシンプルなのでいいやと思っている。
で、そもそもクリストフルのリュバンシリーズはすでに廃盤になっていた(しばらく特別生産はしているらしいが、価格は上昇)。

Tさんに関しては、もうひとつ思い出というか、偶然の出来事があった。
これももう、10数年前のことになる。
吉祥寺のアトレ1階に、神戸屋というパン屋のカフェがあった頃のこと。
仕事帰りに、そこで時々カフェラテとエッグタルトなんかを食べてひと息つくのが楽しみで、そんな時間を過ごしている時、隣席にTさんが座ったのだ。
長年会ってなかったし、最初はTさんかどうか自信がなかったが、友人らしき女性とふたり連れだったので、聞こえてきた会話でTさんと確信した。
何の話だったのかよくわからなかったが、何かをすごく譲り合っていて、Tさんが「いいわよ、私はいいから」と繰り返していて、ああ、この言い方、遠慮しがちなこの感じは彼女に間違いないなあ、変わってないなあと。
住まいも都下の方だと聞いた記憶があったような、なかったような。

でも、その昔、私にクリストフルのティースプーンを贈ってくれたTさんは、私に気づくこともなく、私もTさんに声をかけなかった。


私は時々、そういうことがある。
街中で、ああ、昔会ったことのある○○さんだ、と思い出すのだが、その後、これといって関係性がもうなくなってしまった人には、大抵は声をかけない。
こちらが覚えていても、先方は覚えていないかもしれないと、気が引けてしまうのだ。
で、きっとその逆のこともあるのかもしれないなあとも思う。
誰かが私を見かけて、ああ、と思うけれど、声はかけない。
こちらは気づかない。
で、そんなことも、東京にいない今となっては、もう起こらないのだろうけれど。

神戸屋のカフェは、Tさんを偶然見かけてから間もなくのことだったと思うけれど、店舗スペースの効率化のためか、パン売り場だけ残してカフェは消えてしまった。
人だけでなく、物も場所もうつろう......。
吉祥寺の好きなお店はどこもかしこも閉店してしまったことを思い出し(インテリアのMIYAKEとか、駅前のカフェセボールとか、etc.)、さらに私自身が遠方に移住し、もう吉祥寺の街を歩くこともなくなり、ただただ記憶の箱に集積されるだけだ。

という、これといってオチのない話でした。
でも、夢の種というのがどこから生まれてくるのか不思議だ。
そして、脈絡のない夢の中から思い出したTさんのこと。

夢とは別に、記憶というのも不思議だと思う。
2年前の春、上野リチの展覧会に行った時のこと(上野リチはウィーン生まれで、日本人と結婚し、日本で活躍したデザイナー。1893〜1967年)。
手袋のデザインの絵があった。
🌲モミの木っぽい葉に、お花の手袋。
ふいに、幼い頃、真っ白な毛糸に甲のところにクリスマスツリーの立体的な刺繍がしてある手袋を持っていたことを思い出した。
凝った刺繍で、確かツリーの上部に金属の小さな星か鈴が付いていたような気がする。
きれいで可愛くて、子ども心にもうっとりするものだった。
子どもが身につけるもので、あんなに丁寧に作られたものは今は滅多に見かけない。
私の手袋の刺繍のツリーは、上野リチの絵柄より小さかったが、ちょっと似ていたので、そこから記憶が引き出されたのだろう。
でも、普段は思い出したこともない半世紀以上も前の手袋のこと、その手袋の記憶はどこにしまい込まれていたのだろう?
夢や記憶の種はどこに眠っているのだろう?


今も日々使っているクリストフルのティースプーンと、上野リチ展での手袋の絵(手袋の形のポストカードになっていた)。

Tさん、素敵なものをありがとう。
と、もう届かないお礼を再び言ってみる。
思えば、毎日このティースプーンを使っているのだから、「最近まったく思い出していない」と書いてしまったけれど、もしかしたら無意識にTさんの姿が心(というか脳?)のどこかにインプットされているのかもしれない。
Tさんは当時から、「大変だからこの仕事はあまり続けたくない」と言っていたし、私より年上だったからクリストフルはもうとっくに辞めているのだろうけれど、人柄そのままに穏やかに、平和に暮らしていたらいいな。