今日、8月15日は敗戦記念日。
塚本晋也監督の「ほかげ」(WOWOW)を観た。
この日に観るのに、いちばん相応しい映画ではないだろうか。
(戦争の終結日は9月2日ですが、ここではあえて、玉音放送のあった8月15日を敗戦記念日として書きました)
観るまでは、「ほかげ」という語感から、戦後のつらい時期だけれど、人々が寄り添って生きる姿を描いた映画かな?とぼんやり思っていたら、やはり塚本晋也なので、まったくそうではなかった。
「野火」は戦場が舞台だったが、戦後、庶民の暮らしの"終わらない戦争"を描いたものといえる。
舞台は、敗戦直後の廃墟のような家屋や街、闇市。
そして季節は、たぎるような暑い夏。
戦災孤児となった少年の目を通して、戦争でぼろぼろになった人々を描いていく。
その少年は「ぼうや」と呼ばれ名前はなく、趣里演じる「女」も復員兵の男も、後半で森山未來演じるテキ屋の男にも、名前はない。
誰か特定の個人の物語というより、あの時代、あの境遇を生き延びた人たちの象徴としたかったのだろう。
物語は、戦争で家族を失った女(趣里)が表向きは酒場で酒を出しつつ体を売りながらぎりぎりの生活をしているシーンから始まる。
そこに家族を失った戦災孤児のぼうやが入り浸り、復員兵やテキ屋の男が絡んでいく。
戦災で半分焼け爛れたままの女の部屋が暗く、黒くて、お化け屋敷のようで結構怖かった。
今までドラマなどでよく観ていた、玉音放送があって、「ああ、戦争が終わったのねえ」と夏の青い空を見上げ、解放感のなか戦争の終わりを実感し、生活は大変だけれど、活気のある闇市に向かって.....のような光景にはならないのであった。
「ほかげ」に出てくる人々は疲れ果て、虚ろで、生き延びてしまったことを悔やんでいるようだ。
当時だって、ガッツのある人ばかりではなかったろう。
こういう人たちだってたくさんいたはずだ。
いたはずだけど、”物語”にはなりにくいし、”朝ドラ”の主人公にはならない。
だから、塚本晋也が映画にするしかない。
特に怖かったのは、復員兵の男。
女の部屋に、少年とともに転がり込むが、初めは、元教師で温厚な人格に見えたのに、徐々に戦争で病んだ姿が露わになってくる。
女にちゃんと金を払う、払うと言いながら、仕事などは探しておらず、夜中にうなされ、ある晩、激昂し、女と少年にひどい暴力を振るう。
秀逸なのは、説明台詞などは極限まで省かれているのに、確かにこの男はかつてはやさしい教師だったのに無理やり戦争に行かされ、壊れてしまったことが、観ている側にはっきりと想像できるところ。
「野火」でもそうだったが、兵士たちの酷さ、恐ろしさ、加害者でもあると同時に被害者でもあるという存在、憔悴しきっているのにぎらぎらしたあの感じをどう表現したらよいのか。
「ほかげ」の復員兵は女に家を追い出され、街の片隅で廃人のようになってうずくまっている姿を少年が見つけるが、彼はあのまま命尽きてしまうんだろうな......。
しかし、仮に生き延びたとしても、どんな人生が待っているのか?
昭和の頃、家庭内での男性ーー夫や父親、あるいは祖父ーーのDVは珍しいことではなかったが(アルコール依存症も多く、その両方が結びついていた例も多い)、そういった男性の多くが、実は戦争のPTSDの影響が強かったのだと、最近になってようやく精神医学的にも言われている。
そりゃそうだろうと思うが、当時、いや、昭和どころか平成になっても、そんなことを言う人はあまりいなくて、戦争から生きて戻ってこられただけでありがたいという意識が周りにも、当事者本人にもあったのだと思う。
さて、森山未來演じるテキ屋の男も、少年とある事情でちょっとした旅をするが、彼の方は復員兵よりも、もう少し意識的に戦争を捉えていて、ある復讐を企てる。
その復讐は成功するのだが、成功したとて、それで幸せになるわけではない。
誰も彼もが打ちのめされ、飢えたままで、国は何の保障もしてくれない。
みんな、つらかったねえ。
日本って残酷な国だったよねえ。
戦災孤児のことなんて、誰も気にかけておらず、ごみ扱い。
「ほかげ」のなかでも、少年は盗みをするしかなく、闇市で働かせてもらおうと思っても、大人たちは野良犬を追い出すように、蹴り飛ばしていた(ほんとに小さな子どもなのに......でも、もし自分があの時代に生きていた大人だとして、何ができたろうか)。
本でも読んだことがあるが、こんなことが実際にたくさんあったのだ。
NHKのドキュメンタリーの映像にも、上野駅の構内などでぼろぼろの服を着て、雑魚寝している子どもたちの映像や写真がよく出てくる。
国は無策で、見兼ねたGHQが問題視し始めてやっと動き出したらしく、戦争の始まりも戦争中も、そして戦後も、国民をどんなふうに扱っていたかは、現代に生きる私たちはよく知っておいた方がいい。
と、まったくもって悲惨な映画なのだが、「ほかげ」のなかでは、この戦災孤児の少年の存在が希望と感じられるのが救いだ。
それは、塚本晋也監督の願いというか、祈りのようなものだと思う。
生きることに倦んだような大人たちと違って、この少年はタフで弾むような力があり、これから成長する体が生きたがっている、というのが生き生きと表現されていた。
澄んだ大きな瞳で、戦争に翻弄されてきた大人たちの姿を、責めるでもなく怒るでもなく、射抜くような視線でじっと見つめる。
演じたのは、2015年生まれの塚尾桜雅(つかお・おうが)くん。
NHKの大河「青天を衝け」では渋沢栄一の孫役を演じていたそうだ。
瞳がほんとにきれいで印象的で、風貌は可愛くて現代的なのだが、戦災孤児の子どもにちゃんと見えるところがすごくて、見事な演技だった。
「ほかげ」というのは、そんな仄かな希望を表現していたり、絶望的な境遇のなかでもやさしかった趣里や、森山未來が素手で採った川魚を焼く、森のなかの焚き火の炎だったりするのかもしれない。
言うまでもないが、森山未來の体の動きがいちいち素晴らしいし、朝ドラの「ブギウギ」と180度違う趣里も見られるし、決して楽しい映画ではないが、多くの人に観てほしい。
登場人物の出自だとか、それぞれの詳しい物語がなくても、また、戦場の回想シーンなどがなくても、戦争を深く表現できるということがよくわかるはず。
戦争によってどれだけの人々が死んで、生き延びても傷つき、貧しく飢えていたことか。
1945年8月15日を迎えても戦争は終わらなかった、かつての日本を思いながら......。